たとえば、ウィトゲンシュタインは「芸術的な驚きは世界が存在することである。存在するものが存在することである」と、どっかに書いていた。それは存在を全的に肯定することではないか。「形の無い」リアルを、「存在」として肯定すること。なぜか、と問わないこと。因果論は、ただちに歴史=物語を作り上げてしまうから。
いつの時代でも思考することは実験することと同じなのです。思考とは解釈ではなく、実験なのです。そして実験は常にアクチュアルな、いま現在生まれつつある新しいものをとりあげ、結局、現時点でなされつつあることを対象にしておこなわれるのです。(『記号と事件』)
彼女のふくらはぎは
オスシシャモ
ヴラジーミル 全く無意味になってきたな。
エストラゴン いや、まだそれほどでもない。
(ベケット『ゴドーを待ちながら』)
そうか?
期待を裏切ることはひとつの快楽だ。でもそれは気がふれたふりをしたいからではなくて、私たちは私たちなりに、好きなときに狂人になることができるからなんだ。それだけのことさ。(『記号と事件』)<<
狂った月、気狂いピエロ……青白い月明かりのなかで悪魔と踊ったことがあるかい?(ジョーカー)dancing with the Devil's haircut in my mind……引用の織物(テクスト)。僕の意識の内部は他人の言葉であふれている。
ゴダールはうまいことを言っています。「正しい映像ではなく、ただの映像さ。」哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。「正しい理念ではなく、ただの理念さ」とね。(『記号と事件』)
正しい言葉ではなく、ただの言葉さ。
ある日、このように、僕は『記号と事件』を読んだ。